『 3.11後の放射能 「安全」 報道を読み解く 』 影浦峡

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社内コミュニケーション・企業理念・企業文化に関わる書籍を紹介しています。今回取り上げるのは 『3.11後の放射能 「安全」 報道を読み解く 社会情報リテラシー実践講座 』 影浦峡です。

 震災後の、特に放射能をめぐる報道には、不信感をもったり不安を感じている方が多いと思います。報道される内容(事実とされるもの)がどんどんと変わっていく、人によって見解が違い、誰の言葉を信じていいのかわからない、などといった理由が考えられますが、この本では報道された“言葉” に絞って、そうした不安の原因を解きほぐしていきます。題材として今回の震災による放射能報道を取り上げており、また事故の社会に与えている影響についての切実な思いに支えられているとはいえ、この本の性格を端的に表しているのは、むしろサブタイトルの 「社会情報リテラシー実践講座」 といえるでしょう。

 今回の混乱のいちばんの原因は、ある事態が “安全” か “危険” か専門家(科学者)によって意見が分かれていることではないでしょうか。実際に、いまの科学では分からないことは少なくないといわれます。しかしながら、言葉遣いがその混乱を増幅させることもあるのです。同じ事実に基づいて書かれた次の二つの文章を比べてみましょう。

 「100 mSv(ミリシーベルト)未満では放射線ががんを引き起こすという科学的な証拠はありません 」( 放射線医学総合研究所 )

 「 がんリスクの推定に用いる疫学的方法は、およそ100 mSv までの線量範囲でのがんリスクを直接明らかにする力を持たない、という一般的な合意がある 」( 国際放射線防護委員会 )

 前者は、何となく 「(証拠はない)・・・だから100 mSv 未満の放射線で大騒ぎをすることはない 」 というニュアンスを感じませんか?それに対して、後者は少し回りくどいですがフラットに 「 現在の科学には限界がある 」 ということを語っており、どちらかというと慎重な対応が推奨されている感じがします。

 実際に、今回はこの一年間の被曝量100 mSv をめぐって専門家の見解が分かれました。ある専門家は 「大丈夫だ」 と言い、別の専門家は 「危ない」 と言う。一人ひとりの専門家は誠実であるにも関わらず、このような状況が長く続くと、私たちはだんだん言葉に対する信頼を失っていきます。その果てに 「御用学者だ」 「放射線ヒステリーだ」 という人格攻撃まで始まりました。個人的な感情ですが、このような誹謗はほんとうに止めてもらいたいと思います。

 企業の場合でも、このように因果関係がはっきりしていない事柄について説明を求められることがあると思います。そうした際に、どちらかというと私たちは、先の文例でいえば前者の方、つまり問題を過小評価させるレトリックを使いがちだと思いますが、果たして受け手にはどう聞こえるでしょうか? 

 ちなみに、というか放射能に話すと、日本の法令が定める被曝の上限は一年間1mSv で、前述の議論とは実は桁がふたつ違います。この前提を踏まえないまま議論が走っていることにこそ、筆者は日本の言論が抱える病巣をみているのです。

 “事前と事後” という視点も参考になります。“事後” とは、たとえば医者の患者に対する言葉づかいに典型的にみられます。つまり、すでに問題を抱えてしまった人に対して、その負担を減らし、安心してもらうような話し方です。「大丈夫ですよ、そんなに心配することはありませんよ 」 といった語り口が典型でしょう。

 しかし、“事前” なのに、つまりいまは危機に備えて手を打つときなのに、同じような言葉をつかうことは、危険を過小評価することになりかねません。これは最悪のケースを想定するというリスクマネジメントの基本から外れてしまいます。

 例えば、ある程度放射能が拡がってしまった地域の方に、「 この程度であれば、大きな影響は考えられないので落ち着いてください 」 と言うのは、場合によっては望ましいかもしれません。しかし、それより外側に住んでいる人たちに同じように言うことは、必要な対応を遅らせることになるかもしれません。今回の、震災でも、この事後と事前の発言の混同が少なからずあったと思います。

 “安全・安心”という言葉についても考えさせられます。筆者によれば、これはレベルの違う言葉の組み合わせということになります。“安全” は、「状況や対象、行為に関する個人の判断や見解」 であり、「 私はこれまでだったら安全だと考えます 」 という個々人の判断を持ち寄り、すり合わせて合意に達することが可能です。これを 「社会的な合意 」 といいます。

 社会的な合意の典型的なものは法律です。例えば交通法規にはいろいろなものがありますが、それは交通事故ゼロを約束するものではありません。そうではなくて、自動車がもたらすベネフィットと、事故というリスクを天秤にかけ、両方のバランスから社会と個人が合意したものが交通法規の体系といえます。そうした前提で、個人はドライバーとして常に安全を意識して運転をしているし、歩行者であれば、横断歩道を渡るときなどに安全かどうか自分で判断をして行動しています。

 それに対して“安心” は 「 個人の心理的な状況 」 です。同じ歩行者でも、車道を走る自動車にどこかおびえながら歩いている人と、全く意識しないでいる人がいる可能性があります。そのような心理は全く個人的なものです。“安心” にしても、反対の“不安” にしても、あくまでも感じる側の問題であって、他の人がいうことではないのではないでしょうか?

 以上ほんの一部ですが、この本に書かれた、言葉をめぐる幾つかの視点を紹介しました。リスクに関わるコミュニケーションに携わる方には、強くお勧めしたい一冊です。ただし、丹念に読んでいけば決して難しい本ではありませんが、多少の理屈っぽさは覚悟してください。静かな語り口から筆者の強い危機意識が伝わってくる本でもあります。

【今回紹介した本】
影浦峡 ( かげうらきょう )著  『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く 社会情報リテラシー実践講座』 現代企画室,2011

下平博文
IABCジャパン 理事
(花王株式会社)