「地震の与える心的影響について」 ウィリアム・ジェームズ

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下平博文
IABCジャパン 理事
(花王株式会社)

■このテキストについて

“On Some Mental Effects Of The Earthquake” by William James の全文です。ウィリアム・ジェームズ (1842年1月11日-1910年8月26日) は、ウィキペディアによれば “アメリカを代表する哲学者・心理学者。バースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ。著作は哲学のみならず心理学や生物学など多岐に及んでいる” とのことです。この文章は1906年4月に発生したサンフランシスコ地震の直後に執筆されたものです。

■翻訳の背景について

 3月11日の震災後、私は次の二点について考えていました。■被災現場のたくましさと、政府や東電などのたよりなさ ―― 後者については、個人の資質や組織の体質に帰せられることが多いが、それだけで説明できるものなのか?■日本人の秩序ある行動に国の内外から賞賛が寄せられたが、それはどこからきたものなのか?

 そんなとき出会ったのが 『 災害ユートピア “A paradise built in hell” 』 レベッカ・ソルニット (亜紀書房) という本でした。少なくとも、上記の二つの疑問に納得いく説明をしていました。簡単にいうと、大災害時には被災地の人々は助け合い、遠隔地では過剰に反応をして判断や対応を誤りがちだ、という内容です。そうであれば、今回の人々の行動や対応は、決して日本人独自のものではなく普遍的なものだということになります。

 この本のなかで大きく引用されていたのが、この 「 地震の与える心的影響について 」 です。最初翻訳を探したのですが見つからなかったので、5月の連休を利用して自分で訳してみました。少し古いスタイルの英語らしく、抽象的な言葉も多く、けっこう難易度が高かったです。歯が立たない部分は、会社の仲間に助けてもらいました(ビリーさん、ありがとう)。

 「 普通の人々は、まさに “人であるがゆえに”、勇気にあふれる性質をもって前に進んでいくだろう 」 という結びの言葉は、明るい希望を与えてくれるものですが、その少し前にある 「 心的な悲痛や苦悩は、たいていは人と人の距離によるものである 」 という文言が胸に迫ります。多くの人々が、長期にわたって関わることの大切さを示唆していると思います。とはいえ、ところどころに違和感のある記述もあります。ジェームズ教授の “教え” を広めることが本意ではありません。100年前の “記録” として参考にしていただければと思います。

 原文 ⇒ http://grammar.about.com/od/classicessays/a/WJamesEarthquake.htm

 

 「地震の与える心的影響について」ウィリアム・ジェームズ 

Note: サンフランシスコ地震が起こったとき、著者は近隣のスタンフォード大学に居た。彼は、当日の朝にサンフランシスコに入ることができ、その日を町で過ごした。この記事は、Youth’s Companion for June 7, 1906に掲載された。

 昨年の十二月、ハーバードからスタンフォードに移るときに、カリフォルニア出身で古くからの友人Bから、次のような挨拶を受け取った。「 君がそちらにいる間にちょっとした地震を体験できるといいね。それでこそ、カルフォニア通というわけだ 」。

 というわけで、四月十八日の朝五時半過ぎ、スタンフォードの小さな宿舎でベッドが揺れ始めたときに先ず感じたのは、どんなふうに動くのかを知ったという嬉しさだった。「 やあ、ついにBの言っていた地震がやってきたな 」 揺れは次第に強くなってくる「それも、飛び切りのやつじゃないか!」

 私は無意識にひざ立ちになっていたが、揺れがさらに強くなり、部屋が子犬にくわえられたネズミのように振り回されると、うつぶせにベッドに叩きつけられた。そしてあらゆるものが床に落ち、机とたんすが横滑りをしてクラッシュした。揺れはフォルティシモに達し、壁に亀裂が走り、恐ろしい大音響で外気が震え、一瞬のうちに静寂が戻ってきた。と間もなく、遠くから、近くから人の声が湧きあがるように聞こえてきた。部屋着のままの住民が安全を求めて、また誰かと話したいという衝動に突き動かされて、通りに出てきたのだ。

 リック天文台の記録によれば、それは四十八秒の出来事だったという。私の感じた長さもその位だったが、もっと長く感じたという人も多かったようだ。揺れの続く間、感覚と感情に圧倒され、ほとんど何も考えることもできなかった。もちろん、何か振り返るとか、次を考えるとかいった余裕もなかった。

 その感情は、全く歓喜と感嘆に満ちたものだった。歓喜とは、「地震 」 という抽象的でただの言葉に過ぎなかったものが体感できる事実となり、具体的に証明されたのだという生々しさに触れた歓喜であり、感嘆とは、ちっぽけな頼りない木造の建物が、そのような振動にも持ちこたえたということについてのものである。私には恐怖は全くなかった。ただ、純粋な喜びと、出来事を歓迎する気持ちだけがあった。

 「 いけ、もっといけ 」 私はほとんど叫んでいた。

 私は、妻の部屋に走った。妻も眠りから醒めていたが、同様に恐怖に襲われてはいなかった。後ほど質問をしたほとんどの人も、その揺れが続いた間は、恐怖はなかったと答えた。そのかわりに、多くの人々が、ベッドを離れるや否や本棚や壁のレンガがその上に降り注ぎ、自分がいかに危ういところで助かったかと気づいた時、ショックに襲われたと語った。

 思考力が戻ってくるとすぐに、私は自分の意識が現象をどのように捉えたか、振り返ってその特殊さに気づいた。それは、極めて自然発生的であり、言うならば避けることも、抵抗することもできないものであった。

 最初、私は地震を一つの生き物のように感じた。それは、友人Bが予言した “あの” 地震だった。それは、数ヵ月にわたり鳴りを潜め、息を殺していたのだが、それはその輝かしい四月の朝に私の部屋に侵攻し、もっと激しく、もっと勝ち誇って力を見せつけるためだった。しかも、それは直接 “私” を目掛けてやって来たのだ。それは背後から忍び込み、部屋に入るや私を自分のものにし、君臨した。その “魂” や “意志” の強さは、人間の力を超えており、どのような人間の行動よりも、生き物のもつ生々しさに溢れていた。

 この点について、私が意見を聞いた誰もが、それぞれの経験のなかにこのような特徴があると同意してくれた。「 明らかな意図を感じた 」 「 悪意を持っていた 」 「 破壊に夢中になっているようだった 」 「 力を誇示したがっていた 」 等々。私には、単純にそれは、その名が意味しているものを存分に表現したがっていたというものだ。しかし、“それ” とは何か?ある人にとっては明らかに得体の知れない悪魔のような力であり、私にとっては個人的な存在、すなわち “Bの地震” である。

 ある人によれば、これは世の終わりであり、最終判決の始まりであった。サンフランシスコのホテルの滞在していた婦人の場合、通りに出て人に説明を受けるまで、地震だとは思わなかったという。神学的な解釈が恐怖を遠ざけ、落ち着いて揺れに身をまかせることができた、と私に語った。“科学的” に言えば、地震とは、地殻の緊張が頂点に達し、地層が次の安定した平衡状態に移動する時に起こる亀裂と振動と、それにともなう障害の総称に過ぎない。地震は地震である。しかし私には、世の中をかき乱す生命体と知覚された。そう感じないではいられなかった。ダイナミックで圧倒的な説得力を持っていた。

 今では、私は災害の初期のこうした説話的な印象が、人にとって避け難いものであることを、これまでになく良く理解をしている。そしてまた、科学が私たちに教え込もうとしている近年の常識が、いかに人の自然な感性に反し、人工的なものであるか、ということも。素朴な人間にとっては、地震は超自然的な警告、もしくは懲罰以外のものではあり得ないのである。

 出来事の途方もない大きさが恐怖を払い除けるという典型的な例が、次のスタンフォードの学生の体験である。彼は、大きな石造りの宿泊施設であるエンチナホールの四階で寝ていた。目が醒めるとすぐに、彼は何が起こっているか理解しベッドから飛び降りた。しかしすぐに足元をすくわれ、周りの本や家具が落ちてきた。恐ろしく禍々しい轟音とともに、全てが崩れ始めた。柱や梁、壁などの一切合財と一緒に、彼は床を三つ突き抜け、地階まで滑り落ちて行った。「 これでお仕舞いだ、これが自分の死なのだ 」 と感じたが、恐怖は微塵も無かった。この経験はあまりに圧倒的で、なりゆきに身を任せるしかなかった。(このビルは重い柱が崩壊し、建物の中央部を道連れにした)。

 建物の底まで落ちると、周囲は柱など瓦礫で埋もれていたが、押しつぶされることもなく、動くことができた。日の光が見えたので、それに向かって障害を乗り越えて進んだ。我に帰ると寝間着のままで、痛みは無かった。彼が最初に考えたのは、部屋に戻ってもっと見栄えの良い服を探そうということだった。建物の端にあった階段をつたって四階まで戻ったとき、ようやく自分の部屋がもう存在しないことに気づいたのである。そのとき足に痛みを感じ、初めて怪我をしていることに気づいた。そして、苦痛に耐えながら階段を降りた。十日後にこの話しをしてくれたとき、彼は一週間の入院中で、松葉杖を突き、借り物の服を着て、青白く弱ってみえた。

 スタンフォードにおいて私たちが体験したことは、だいたい似通っている。ほとんどの柱が倒れ、なかには上から下まで崩壊してしまった建物もあった。床はレンガやしっくいで覆われ、家具はいたるところでひっくり返り、元のところに留まってはいなかった。しかし木造の住居はその姿を保った。開かなくなった窓は無かったし、壊れたドアも無かった。木造建築こそ勝者である!そして誰もが興奮していた。それはほとんど喜びにあふれたものだった。長年のこけおどしの揺れのあとに、ついに “本物の” 地震が来たのだ。とにかく地震について語り、経験を分かち合いたいという欲望には逆らえなかったのである。

 ほとんどの人が、地震から数日の夜を、戸外で過ごした。それは余震に備えるためでもあったが、それぞれの感情を解き放ち、非日常性を満喫するためでもあった。朝になると、キャンパスの広場からは鳥の声に交じって、早起きをした男女の学生のくぐもった声が聞こえてきた。天気はこのうえなく、三、四日の間、それは晴れがましい夜明けの情景に彩りを添えた。

 さて、サンフランシスコである。地震後間もなく、三十五マイル離れたその街からやって来た車が、廃墟のようになった街の悲惨なニュースを運んできた。火の手が数ヵ所で上がり、水の供給が滞っているという。私はその日、幸運なことに街に向かうただ一本の汽車に乗ることができた。さらに同じ日の夕方には、街を発つこれも唯一の汽車に乗って帰って来ることができたのである。このようにして、私と同行したもう一人の勇敢な女性の二人は、約四時間もの間、街の様子を観察することができた。私たちが四方八方で目にした街の物質的な被害については、新聞や雑誌が余すところなく伝えているので、ここでは “主観的な"  テーマに絞って話そう。昼前に到着したとき、街は広大な煙で覆われ、大きな爆発が始まっていた。しかし、軍隊や警察、消防は秩序を確立していたようにみえた。危険な箇所はどこもロープで立ち入り禁止にされ、店は閉められ、車は徴用されていた。各自が各自の “できる” 仕事に取り組んでいた。

 掘り起こされた蟻塚のなかで、卵と幼虫を救うために蟻が急ぎ足で歩き回るように、路上の人間みなが忙しげにしている様子は、本当に奇妙なものだった。見渡す限り、馬と車輪のついたあらゆるもの ―― 屋台のワゴンから自動車まで ―― が、広がる炎に晒された家からかき集められた家財を運んでいた。歩道は、より安全な場所を求め、かごや包みやスーツケースを抱え、あるいはトランクを引きずる、身なりを整えた男女でいっぱいだった。火は燃え広がっている最中だったので、すぐに次の場所に移動をしなければならなかった!

 安全な地域では、住人が必要な家財を各戸の玄関前の階段に並べ、直ぐにでも逃げ出せる格好で座っていた。思うに、当日は誰もが絶食状態だったのではないか。物を食べている人を一人も見なかった。全般に狼狽している様子もなく、しゃべり声もほとんど聞かれず、目に余るような興奮も見られなかった。

 誰もがやろうと決めた仕事を、ただ黙々とこなしているように見えた。顔はいくぶん引き締まり、強ばり、厳粛なもので、表情に乏しかった。私が気づいた限りでは、感情に圧倒されているようにみえたのはわずか三人だった。大変貧しい二人のイタリア人女性が、年を取った同郷の女性と抱き合って泣いていたのである。それをのぞき、人々の顔つきから読み取れる内面の状態といえば、肉体的な疲労と、生真面目さだけと言ってよかった。

 家で明かりを灯すのは禁じられており、街を照らすのは大火ばかりだったので、夜がくれば、サンフランシスコの悪者たちが、きっと祭りのように盛り上がって活躍すると恐れられていた。しかし、どこにでもみられていた軍の規制を恐れたのか ―― それとも災厄の大きさに身を慎んだのか、その時も、そしてその後も、悪党たちは潜んでいて現れることはなかった。

 人間性にとって唯一の不名誉な出来事は、後日みられることになった。数百人にのぼる怠惰な人々が引き続き公園で寝泊りし、腹のまわりに色々なものを貯め込んでいた。ただでもらえる食料を、人によっては夏までもつくらいの量を、小屋やテントに貯めていた。窮乏、そしてホームレスという状況が、唯一悪魔に付け入る隙を与えたようだ。最初から盗みはあったが、私が聞いた限りは軽いスリのようなものに限定されていた。

 手元の現金が全てのお金だった。この点において、金持ちやその家族が他の人と比べて特に良い状態だったというわけではない。自動車を持っている者であれば使うことができたが、金持ちでさえそうした人は少なかったので、最初の二晩は、かろうじて自分の腕で抱えられるものだけ持って、地面の上で毛布にくるまって過ごした。幸いなことに、雨も降らず比較的温かかった。加えてカルフォルニアでは、夏のキャンプ生活に親しんでいる人が多かったので、他の場所と比べれば屋外生活が与える影響は小さかった。四日目の夜には雨になったが、それまでにはほとんどの人がテントや幕で屋根の下に入ることができた。

 八日後、私は再び街に行ってみた。火事は消えており、街の約四分の一は焼け残っていた。傷を受けなかった高層ビルが、堂々と雄大に煙の帯を見下ろしていた。そうしたビルと幾つかの壁が崩壊を免れていたのだ。それは、私たちの時代の建築家と施工者の勇気を承認し、讃える風景だった。

 人々からは、消沈した様子が消え、代わりにH. G.ウェルズだったら"効率的な"と呼ぶ人々が残っていた。すでに小屋を建てて商売を始めようとする者もいた。過去と未来の恐ろしいような断絶にも関わらず、そしてそれまで親しんできた物質的なものとの結びつきが絶たれたにも関わらず、誰もが楽しそうにみえた。規律と秩序は、実質完璧だった。

 このあたりで現場のメモを切り上げ、より一般的な考察をしてみようと思う。

 思い返すと、二つのことが強く印象に残っている。どちらも人間の本来の性情について、心強い思いをさせてくれるものだ。

 その一つは、カオスのなかから秩序が自律的・即興的に立ち上がってくる、その速さだ。統計的にいえば、千人の人間がいれば、そこには少なからぬ芸術家、アスリート、思索家、良い兵士になる素質を持った人がいるのは明らかだが、同様に危機の際に優れた統率者となる資質を持った人がいるということだ。

 事実、大きな都市に限らず、辺鄙な町でも、素人・専門家を問わず、生まれつきの秩序をつくる人間が直ちに前線に出てきた。あらゆる可能性をとにかく誰かが予想していて、二十四時間以内にその対処方法もなんとかできているようにみえた。

 以下は、その例である。キースは太平洋を望むこの地方の偉大な風景画家である。多作ではあるが、彼の絵は芸術的にも市場的にも価値の高いものだ。彼の絵を愛する二人の市民が、地震の当日の早い時点で、自分たち自身の利害を含むあらゆることを捨て、キースの絵が収められている所を知っている限りまわることを最優先にした。彼らは額から絵を切り取り、くるくる巻いて、こうして多くの貴重な絵を安全なところに避難させた。

 その後、彼らはキースを探し当て、この素晴らしいニュースを伝えた。その時、彼は火事から離れたアトリエで、静かに新しい絵に着手をしていた。すでにこれまでの絵は失われたものとあきらめ、一刻も早くこの災害の償いに取り掛かろうと決意をしていたのだ。

 スタンフォード大学のそばに一万人ほどの人口を抱えるパロアルトという町があるが、そこの組織的対応の完璧さは滑稽なほどだ。人々はサンフランシスコから大量の難民が押し寄せ、秩序が乱れるのではないかと心配した。実際はパロアルトめがけて逃れてきた者はほとんどいなかったのである。しかしながら、町では二十四時間以内に、食料、衣類、医療、検疫所、抗菌設備、身体や衣類を洗うところ、警察、軍隊、屋内外の宿泊施設、インフォメーションの印刷、雇用といった全ての準備をボランティア組織の手で整えた。

 こうした即応能力の多くは、アメリカらしさ、さらにはカルフォルニアらしさのあらわれと言えよう。しかしながら私は、どこの国であっても同じような危機の際には、見る者を驚かせるような見事な即応能力をみせるものだと思う。軍務に就いている者にみられるように、それは人が本来の性質のなかに潜在的にもっているものなのだ。

 強く印象づけられた二つ目のことは、落ち着きや沈着さが全体を支配していたことである。間もなく東部から、心配と哀愁に満ちた声が響いてきた。しかし、これは前々から私が確信を持っていたことを、改めて知らせてくれただけだった。それは、大きな災害に対して感傷的になるのは、むしろ災害の現場から離れてものを見る人たちであり、直接の被害者ではないということである。ここカルフォルニアでは、感情的な、あるいは感傷的な単語を一度も耳にすることはなかった。

 「 恐ろしい 」 とか 「 目を覆いたくなる 」 といった言葉は、人々の口から嫌というほど出てくる。しかし、それは極めて抽象的な意味で使われるのであり、それを口にする人の表情からは、災害の容赦のなさを嘆くのと同じくらい、そのカタストロフの大きさに対する畏敬がうかがえるものなのだ。実務的でないことを話すとき、(少なくとも私がそこで過ごした九日間は) 人々の口調は悲しみの感情を帯びたものというよりは、神経の興奮を感じさせるものだった。心のなかで、各自個人的な苦しみを抱えていたことは疑いない。しかし、話しかける誰もが同じ苦しみを分かち合っていると知っている場合は、個人の不運をくどくどと話すことを潔しとしなかった。

 私は確信しているのだが、私たちの通常の不運が耐え難いものになるのは、それが孤独と結びついたときである。私たちは健康を損なうこともあれば、妻や子供を失うこともある、家が燃えてしまうかもしれない、破産するかもしれない。それでも世界は楽しげに回っている、私たちをこちら側に残して、私たちを物の数に入れるのを止め。私たちはほったらかしにされ、すべての出来事から蚊帳の外に置かれてしまう。カルフォルニアでは、多かれ少なかれ、誰もが被害者だった。個人の災難は、もっと大きな社会全体の困難や、復興に向けての全てを飲み込むような現実的な問題と、ひとつながりだった。皆の調子は上機嫌、そうでなければしっかりとした頼りがいのあるものだった。私が話しかけた百人もの被災者の誰一人からも、哀れっぽい声や、悲しげな言葉を聞くことはなかった。その代わりにあったのは、人に頼るよりは、人の役に立ちたいという感情だった。

 こうしたことを、アメリカ流、あるいはカリフォルニア流、と賞賛するのはやさしい。確かに、カリフォルニアの教育が、復旧に向けた心構えをつくるのを容易にしたのだろう。資源に余裕のない、疲弊した国では、将来の展望はもっと暗いものになっていただろう。しかし、私は、ここで私が書いてきたようなことは、人の本性のノーマルで一般的な特徴だと考えたいと思う。家庭や職場で話しをするときは、私たちは困難な戦争や難破にあった人々が、いったいそれをどのように乗り越えたのかと思う。私たちは想像してはおののき、気分が悪くなり、そしてそうしたヒーローたちを超人のように感じる。身体的、物理的な痛みは、それが個人的なものであれ、集団のものであれ気力をなえさせ、耐えるのは難しい。しかし、心的な悲痛や苦悩は、私は想像するのだが、たいていは人と人の距離によるものである。行動の局面において集団でこれに当たる場合、健全で動物的な無感覚と誠実さが心を支配する。サンフランシスコでは、数週間、数ヵ月、これからも欠乏は大変なものだろうし、疑いなく神経的な荒廃もあらわれるだろう。しかしそれにも関わらず、普通の人々は、まさに “人であるがゆえに” 個人としても、集団としても、この賞賛に値する勇気にあふれる性質をもって前に進んでいくだろう。

■追記 

 訳文は以上です。今回の震災に話しを戻します。すでにあれから四ヵ月が過ぎようとしていますが、識者といわれる方たちの発言をみても、依然として“いま何について考え、議論すべきなのか”といういちばん大切なポイントについて、軸足が定まっていないように感じられます。そのなかで私が注目したのは、阪神・淡路大震災でこころのケアセンターの所長を務めたという中井久夫の次のような言葉でした。

《 私がいいたいことはただ一つ、今度の大震災では東京が中間地帯に入ってしまったことが最大の問題ではないかということです。実は東京もある意味では被災していて、その自覚がないだけ難儀であるという見方があるかもしれません 》 ― 東北関東大災害に際しての考えと行い 『大震災のなかで』 岩波新書 2011.6.21

 中井は、先の震災の経験から、被災地の内部でも外部でもない中間地帯こそ、社会の混乱が深いといいます。東京が中間地帯ということは、情報の発信力ということを考えると、日本全体がすっぽりと中間地帯に入っているのかもしれません。中途半端な気持ちを捨てて、私自身も被災している、という自覚を強く持つべきなのでしょうか?

 なお、中井久夫の阪神・淡路大震災の貴重な手記を、下記のサイトで読むことができます。

http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shin00.html