高尾義明・王英燕著 『経営理念の浸透――アイデンティティ・プロセスからの実証分析』 (有斐閣、2012年3月)
◆「広報研究」 2013.3 (第17号) に寄稿した書評を、一部省略して転載します。
私の勤務する花王株式会社が、それまでの 『花王の基本理念』 を改定し 『花王ウェイ』 を発行したのは2004年のことでした。当時、経営理念について書かれた本は数えるほどしかなかったと記憶しています。間もなくして理念経営 (ウェイマネジメントなど呼称は幾つかバリエーションがあります) のブームともいうべきものが起こりました。一過性ではないか危惧する見方もありましたが、現在では、経営における理念の重要性はあたかも定説になったかのように語られます。しかしながら、経営理念がどのように事業の発展や業績の向上に貢献するのか、それを明らかにした理論なり研究はいまのところ登場していません。それゆえ場面によっては、理念の重要性を説く言葉はどこか建前のような白々しさを漂わせることもあると思います。「理念で飯が食えるのか?」 そうしたストレートな物言いをする経営者はさすがに少なくなったと思いますが、しかしその問いに正面から答えることは誰にもできていないのではないでしょうか。
この 『経営理念の浸透――アイデンティティ・プロセスからの実証分析』 は、上記の究極の問いに向けて、初めて実証的な一歩をしるす画期的な研究といえると思います。特徴の第一は、2008年から2010年にかけて行われた 「ミッション志向企業における仕事の進め方についての調査」 で得られた大量のデータに基づいて論考が進められている点です。こうした定量的な調査は、私が知る限りは初めてのもので、これにより理念に関する事柄が初めて実証的に語ることができるようになりました。
第二の特徴は、これまではどういう状態をもって “浸透” したといえるのか、という基本的なところで、それなりの記述はあるものの徹底して考えたという痕跡を感じるものは少なかったと思うのですが、この本ではそこのところの定義に大きな紙数を割いています。これも特筆すべき点だと思います。
三つ目の特徴は、これは上記の浸透の定義とも関連することですが、これまでの研究では “組織全体” としての理念浸透に焦点が当てられていたのに対して、経営理念を実際に体現すべき “個々の従業員” をも考察の対象にしていることです。これは実務担当者の実感としては大きな違いです。これまでの理念の浸透を扱った解説書では、対象となる社員を大きな均質のマスとして捉え、それに対してどのような施策を実施すると理念は (あたかも一様に浸透するかのように) 浸透するのか、という記述がほとんどでした。ところが、実際にいろいろな活動をしてみると、理念に対する感じ方――距離感の大小とか温度差とかいわれるもの――は、従業員一人ひとり異なっており、なおかつ職場によってもずいぶん違うということを肌で感じます。そうすると、どこにでも、誰にでも通じるような有効な施策があるというような記述が、にわかに現実離れをしたものに感じられるのでした。
四つ目の特徴は、浸透度の実証的な測定項目 (情緒的共感・認知的理解・行動的関与に関する11項目) が提示・提案されていることです。これも画期的でしょう。
そして、第五の特徴は、定量調査から導かれた結果の多くが、私のような理念担当者の現場の実感とよく響きあうものであるということです。「そんな分かりきったことを、学者はこんな手間を掛けて議論をするのか」 悪くいえばそういうことなのですが、これは私たちの実践と研究のアプローチの正統性を、共に間接的に裏付けてくれているということに他ならないのではないでしょうか。
ひとつの例を挙げます。理念の浸透において、経営トップの意思が重要だとはよくいわれることです。もちろんトップのコミットメントを前提としたうえで、しかし浸透にもっとも影響を与えるのは職場のリーダーだということが、ここでは示唆されています。これは、これまでの解説書ではなかなか言及されない事柄ながら、実務者のあいだでは切実なポイントとして意識されていたことではないでしょうか。
本書の主な内容)
本書は3部で構成されている。第Ⅰ部では、経営理念浸透への新たなアプローチの提示を目的として、組織コンテクストのアイデンティティ理論を導入して理念浸透の複雑性の分析を行い、理念浸透の構成次元について検討をしている。第Ⅱ部では、他社の理念浸透との関係性および組織的施策、職場要素などを取り上げて、理念浸透のメカニズムの分析を行っている。第Ⅲ部では、理念浸透と個人の組織行動との関係について検証している。
下平博文
IABC理事(花王株式会社)